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日本の子どもがいかに贅沢か思い知った話【アジアを旅した保育士の気づき】

かんかん

約2ヶ月間でアジアの国々を10ヶ国ほど旅行して、日本との違いをいくつも感じました。

そして、日本との違いももちろんあるけれど、それぞれの国ごとにも違いがあります。それぞれ違う歴史があって、違う文化があって、違う経済状況があって。

 

そんな中で、ぼくが考えさせられたことの一つに「働く子どもたち」のことがあります。

働く子どもたち

主に観光地に多かったのですが、まだ小学生くらいの子どもたちがカゴを抱えて土産物を売っていたり、お土産用の写真を手に「1枚買わない??」という表情をしながら手を出してきます。

 

 

こうやって働いている子は、自分のお小遣い稼ぎのために働いているわけではありません。両親に言われて、家族のために、家計の足しにするために働いています。国や子どもの家庭環境によっても様々ですが、毎日学校が終わってから働いている子どももいれば学校に行けていない子どももたくさんいるようです。

 

 

驚いたのは観光地で働く子どもたちは決まって「コンニチハ」「ホシイ?」「ヤスイ」などの日本語を喋れること。1から5くらいまでなら日本語で数えることもできていました。

さすが子どもの柔軟な脳です。毎日観光客相手に商売をしていて覚えたんでしょうね。日本語の他に韓国語や中国語で同じことを言える子どももたくさんいました。

 

5歳で働く女の子

今回の旅行中にぼくが出会った物売りの子どもで1番幼かった子はカンボジアで出会った5歳の女の子です。

彼女は観光地へ向かう道路の脇に1人で座ってブレスレットを売っていました。

 

近くに親がいるのかなと思いましたが周りには誰もおらず、その子はホントに一人でした。この子は英語が喋れなかったので「お母さんは?」って聞いても首を横に振るだけで、その場を離れているだけなのか、違う場所で観光客相手に商売をしているのか、そもそもいないのか、わかりませんでした。

 

それにしても5歳といえば、ぼくが日本の保育園で働いていたときに担任していた子どもたちと同じ年齢です日本では大人に手厚く守られながら、栄養バランスの取れた給食、発達を考慮して用意された遊びやおもちゃで毎日楽しく遊んでいる年齢です。

 

カンボジアでその女の子を見たとき、日本とカンボジアのあまりの違いに驚くとともに、「日本の子どもは恵まれてるな」と改めて感じました。

qimono / Pixabay

 

日本の5歳の子どもが「これ食べたくない」「あれやだ」「ゲームやりたい」「テレビ見たい」と言ってる時に、カンボジアでは同じ年齢の子どもが観光客相手に「これ買いませんか?」と声をかけ、何度も何度も断られています。

 

日本を1歩出てみると、そういう現実が世界にはある。まじかでこの現実を見てとても複雑な気持ちになりました。

 

差別はしない、上下もない

 

しかし、ぼくが言いたいのは「じゃあそういう子どもたちのために何かしよう」ということじゃなくて、

そういう現実があることだけでも知って頭の片隅に置いておくと、日本で暮らしている親や子どもと関わる仕事をしている人たちの、「子どもの見方•接し方が少し変わるんじゃないか」ってことなんです。

 

生まれる国が違って、育つ環境が違うのはしょうがないことです。でも、それは偉い偉くないみたいな上下関係ではなくて、「人間」という枠で見ればみんな平等なはずです。

 

 

「日本で生まれて育ったから偉い」「発展途上国で育った人間は自分より下」

そんな思いを持って育たないように、周りにいる大人が

  • 優劣のある[差]ではなく、ただの[違い]であること
  • そこに上下はないこと


を伝えていくことが大切なんだと思います。

 

そしてぼくは、「こういうことを自分で考える力」を子どもが獲得するために保育や教育をすることこそが1番重要だと思いました。

 

 

5歳から働いていたらどんな子に育つ??

また、それぞれの国で物売りをする子どもを見てぼくが不安に思ったのは子どもに与える人格形成への影響

物を売っていれば、売れることもあれば断られることもあります。いくら子どもといえど、断られることは多いと思うんです。

 

その時に子どもがどう感じるか。

 

例えば営業職をしている大人であっても、売り込んで断られたら凹むと思うんです。慣れてくるのかもしれないけど、それでもやっぱり売れた時よりも売れなかった時の方が落ち込むと思います。

そんな時、大人なら、断られたのは仕事上の話であって「自分の生活や人格までの全てが否定されている」とまでは考えないでしょう。

 

 

でも、それが小学生くらいの子どもだったらどうでしょう。まだ精神的にも発達途中の子どもが品物を売ろうと観光客相手に毎日毎日声をかけ、それが何度も何度も断わられ続けたら。

きっと断られることには慣れてくると思います。人間は環境に合わせようとする強い力がありますから。

ただ同時に、その子の心にはたくさんの「否定されている気持ち」が育ってくるんじゃないかと思うんです。

 

品物を売ろうと声をかけても「いらないよ」「あっちに行きなさい」と毎日言われ続けたら絶対悲しいですもんね。子どもによっては、「自分自身の存在を否定されてる」と無意識的に感じて無能感を持ちながら成長していくこともあるんじゃないでしょうか。

この記事でも書いた、有能感が育たない子どもになってしまいます。

【自己有能感を育む】子どもが自信を持つために親がしてあげられることと注意点

続きを見る

 

観光客の大人は「商品がいらない」という意味で子どもに「いらないよ」と言いますが、1日にたくさんの大人から同じことを言われている子どもは、「あれ、これって自分の存在がいらないってことなのか」と無意識的に感じてしまいます。

 

「大人は冷たい存在なんだ」「大人は自分を否定してくる存在だ」という概念を形成しながら育った子どもはどんな大人へと成長するのでしょう?

 

海外に出かけて、楽しいこともたくさん待っていましたが、今までの生活や常識を考えさせられるような出来事にもたくさん出会いました。

日本で生活していたらテレビの中でしかない出来事が、もしくはテレビの中にすら出てこない出来事が目の前にくると否が応でもたくさんのことを感じます。それをどう捉えるかはその人次第ですが、まずはそれを「直接感じること」が大切なのかなって思います。

 

子どもは子ども。笑顔が素敵。

物売りの子どもたちも、話せばどこにでもいる普通の子どもたちと同じ一面を持っていることが分かります。

フィリピンでは、エリアによっては街を歩いていると子どもが「お金をくれ」「食べ物をくれ」と近寄ってきます。ぼくは物乞いの子にはお金はあげないと決めている(なぜなら、その子が可哀想だからとお金をあげても、結局その子の裏にいる元締めみたいな人に全部吸収されて、その子がお金を使えるわけではないからです。)のですが、ある時街を歩いていると、5,6歳くらいの子どもが近寄ってきました。

50mくらいでしょうか。その子はずっとぼくについてきます。ぼくは「うっとうしいなぁ」という気持ちより、
「これくらいの子は、日本だったら公園で遊んだり、家でゲームをしたり、親と買い物に行っているのになぁ」という複雑な気持ちでした。

もうしばらく歩くと、少し先に道端でシャボン玉や子ども向けのおもちゃを売っている露天商のオジサンがいて、客引き用にシャボン玉を吹いていました。

すると、そのシャボン玉がふわふわと道の方に飛んでくるのが見えた瞬間、それまでぼくに付いてきて「お金お金」と手をずっと出していた物乞いの子どもが、あっと言う間にシャボン玉を追いかけに行ってしまったのです。

その時の子どもの顔といったら。
ぼくに「お金お金」と言っている時は子どもらしさのかけらもないどんよりした目をしたのに、シャボン玉を追いかけに走るその子の目はキラキラしていました。

「そうだよね、やっぱりそういうのが楽しいよね。」と思うと同時に、「日本の子どもたちはとっても恵まれている」ということを改めて感じました。

 

 

ぼくは子どもの売り子が寄ってきた時、買う気は全然ないんだけど「あっちいけ」とかはさすがに言えないので、「名前は?」「何歳なの?」「兄弟はいる?」「普段何して遊んでるの?」と世間話をするようにしてました。そうすると英語が話せない子どもでも一生懸命伝えようとしてくれます。

で、話しながら歩いていると、子どもたちにも持ち場があるらしく、ある程度離れると「バイバーイ」って手を振って自分から去っていきます。その時の子どもたちの笑顔は、日本やオーストラリアで見る子どもたちの笑顔と変わりない素敵な子どもの笑顔でした。

 

ぼくは「世界平和」みたいなことを堂々と掲げて活動するつもりは今の所ありませんが、どの国にいても子どもの笑顔はいいもんです。

 

日本の子どもたちには、日本という小さな枠に捉われず、広い視野を持って物事を考えられるようになって欲しいと思います。そのためには、世界の国では自分と同じ年齢の子がどんな生活をしているのかを知ることも1つのきっかけになります。

 

 

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