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保育士のアジア旅2016こぼれ話【一期一会。「出会い」と「別れ」と「別れ方」】

かんかん

2016年に2ヶ月間のアジアの国々を1人旅していた時の話です

旅の途中から「あること」がずっと気になり始めました。

それは、コインに「表」と「裏」があるように、出会いと別れも表裏一体で、他者との関わりの中には必ず「出会い」と「別れ」が必ずあること。

というわけで今回は「出会い」と「別れ」の話です。

たとえば、
学校で仲良くなった友だちと、卒業して疎遠になる。
会社に同期で入社して、どちらかの転職などで距離が生まれる。
恋人同士も、どこかで出会い、何かがあって別れます。

 

「出会い」と「別れ」と言えば、親と子どもの関係もそうですね。

子どもは生まれた時に両親と「出会う」。そしてたいていは親が先にこの世を去る形で「別れ」がきます。子どもが先にこの世を去る「別れ」があったり、親と「別れる」のにも早い時期、遅い時期、ひとそれぞれです。

 

一つだけ確実なのは、人と人の「出会い」と「別れ」はいつかどこかで必ず起こるということです。

 

人生は「出会い」と「別れ」の連続

出会いは嬉しいものですか??
別れは悲しいものですか??

過去を振り返るともしかしたら「あの出会いはあんまり嬉しくなかったな。むしろ辛かったな」とか「あの別れは悲しくなかったな。むしろ嬉しかったな。」なんて

一概に「出会い」が嬉しいもので、「別れ」が悲しいものではないのかもしれません。

 

 

ぼくはオーストラリアで暮らしていた時、3〜6ヶ月ごとに住む場所を変えていました。せっかく海外に住むのだからいろんな場所に行ってみたいという好奇心からです。

そういう生活をしていると、「出会い」と「別れ」が頻繁にあります。

新しい土地に行けば、その土地に住んでいる人がいるし、全然違う国の人でもたまたま同じ時期にその場所に来ていてそこで出会うこともあります。

アジアの国々を旅行している時もそうでした。

毎日のように新しい人と出会い、気が合って1日過ごすことになる場合もあれば、ほんの数十分ともに食事をするだけの場合もあります。

トゥクトゥクの運転手や現地の観光ガイドとも、「出会い」と「別れ」の連続です。

 

 

一期一会(いちごいちえ)

アジア旅行をしている最中、ぼくはこういう「出会い」と「別れ」が『一期一会(いちごいちえ)』なんだと思っていました。

電車や飛行機でたまたま席が隣り合わせた、
ツアーでたまたま同じグループになった、
タクシーを捕まえたらたまたまその運転手だった、

そういう一度きりの出会い、「これから先一生会わないかもしれないのだから、その時一緒に居られる時間を大切にすること」が一期一会だと思っていたんです。

 

でも、違うんですね『一期一会』の本来の意味って。

『一期一会』の本来の意味は、

「よく会う人や身近な人と関わるときに【今日が最後の1回】であるかのように会いましょう」

なんだそうです。

全然知りませんでした。

 

確かに今日会う人と明日も会える確率は100%じゃないし、今目の前にいる人と明日も絶対会えるかといえば、絶対ではないですもんね。

家族でも恋人でも会社の人でも毎日のように会っていると、これから先もなにごともなく会い続けられるのが当たり前だと思いがちです。

だから、明日後悔しないために今日会えることに感謝し、伝えたい思いを今伝えることが大切なんだよ、というのが『一期一会』の本来の意味なんだそうです。

もちろん、偶然知り合った一回きりかもしれない出会いを大切にする思いも大切だと思います。

 

 

「別れる」時の「別れ方」は重要

ぼくがアジアを旅していて「出会い」と「別れ」と同じくらい気になったのが、「別れ方」についてです。

日本は交通機関が発達しているので、飛行機•新幹線•電車•バス•タクシー•自家用車で移動することが多いですよね。これらの交通機関はあっという間に別の場所に移動できるから、ぼくたちの暮らしを圧倒的に豊かにしてくれています。

たとえば名古屋駅で新幹線に乗って1時間40分すれば東京に着いてるなんて圧倒的に便利ですよね。江戸時代なんて歩きや馬で移動ですから、その差を考えればものすごい進歩です。

そんな便利な交通機関に、以前は何の疑問も感じなかったのですが、アジアの旅から帰ってきて日本で新幹線に乗った時、あることを感じました。

 

それは、「今まで共有していた空間が一瞬で遮断される」ということ。

 

どういうことかもう少し詳しく話しますね。

 

日本は一気に遮断されることが多い

アジアの国々は、交通機関が日本ほど発達していない場所が多いので、移動には日本では見かけない乗り物を使うことが多いです。

多いのはトゥクトゥクと呼ばれる3輪の自動車、インドではオートリキシャと呼ばれるものがあったり、スクータータクシーなんかもあります。

 

電車に関しても、インドの電車は運賃の安い車両は窓ガラスがなかったり、格子がついているだけの場合もあります。

 

何が言いたいのかというと、「出発する時に扉がピシャッと閉まらない」ことが重要なんです。

扉がないと別れに余韻が残る気がするんですよね。

 

日本の交通機関の多くは、便利で安全。電車でもバスでも車でも、出発する前には扉がプシュー、もしくはバンっと閉まります。

アジアを旅する前はそれが当たり前だったのに、今ではその「プシュー」や「バンっ」という状況に、共有している空間を物理的に、しかも強制的に遮断された気分になることが多くなりました。

 

アジアのトゥクトゥクには窓も扉もないし、スクータータクシーにももちろん窓や扉はありません。

丸1日一緒に過ごして、その日の終わりに「今日はありがとう!!またいつか!」とお礼を言ってトゥクトゥクやスクータータクシーが走り去っていく姿を見ると、姿はどんどん小さくなっていくのだけど、空間ではつながっていることを感じるんですよね。

 

まあ言ってしまえばこれは気分の問題でしかないし、結局は「もう一生会うことはないかもしれないな」という思いには至るんですけど、そこに至るまでの過程が"ゆっくり"か"一気"かどうかが日本とは違うなって思ったんです。

 

水も火にかけると"一気"には沸騰せずに"ちょっとずつ"温度が上がりますよね。
飲み物の一気飲みとかもそうですけど、おそらく「一気」って心や体に負担をかけるんでしょうね。

だから「別れ」についても同じで、扉で一気に遮断されるのと扉がない乗り物の姿がゆっくり見えなくなっていくのでは気分が違うのかなぁと感じたのだと思います。

 

完全にぼくの主観ですが(笑)

 

さいごに

誰かと「出会った」ということは、どんな形であれ、必ず「別れ」が来ると決まっています。

それが今あらかじめわかっているということは、いつか来るその時にどんな「別れ」でありたいかを普段から意識することが可能なわけで、「別れがイヤだ」「別れは怖い」と拒絶してしまうのではなく、分かっているからこそ真剣に考える必要があると思います。

 

「出会い」と「別れ」を意識すること、そして「別れ方」の重要さ。

余韻の違いとも言えるのかもしれません。

人との出会いは素晴らしいもの。しかし「出会い」があれば必ず「別れ」があります。そんなことを改めて考える旅になったことを嬉しく思います。

ぼくはアジアの旅を終えて、自分が関わる人と「最良の別れ」を迎えられるように行動していこうと思うようになりました。

 

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